こんにちは、紡綺ひろかです。
今回は、私は小さい頃から「心」について興味のある子供だったけど、そのことについて無自覚だったなっていうお話をしようと思ってます。
自分にとって大きな喪失を経験したことがきっかけで楽になりたくてインターネットを泳ぎに泳いで、哲学者の名言的なものをメモして持ち歩いていたこともあります。
(※子供の頃の話です)
でも、友人にメモを見られて、病んでるのかと心配されて、
「こういうのっておかしいのかもな…」
と思うようになってやめました。
他人の目を気にして自分の興味に蓋をしてしまったあの頃。
でも、あれから少し大人になった紡綺は、こうして心のことを深く探求しようとしている。
結局戻って来ちゃったなって感覚でいます。笑
もしかしたら似たような感覚を経験された方がいるかもしれない…と思って、今回この話をシェアさせていただきたくキーボードをぱちぱちしております。
しばしお付き合いくださると嬉しいです。
「興味がある」っていう自覚がなかった
さて、興味のあることをやめてしまった昔の私は、数年後また悩みを抱えることになります。
確か、他人と比べすぎて自分に自信がなくなっちゃったのがきっかけだったかと思われます。
で、やっぱり心についての情報を漁り始めていました。
ライフワークと言わんばかりにネットで情報を漁り、図書館で本を探して読み、気付いたことをメモする…といったことに時間を割いていました。
だったら、将来は心理の道へ行けばいいじゃない。
当時の私にそう言っても、きっと目を丸くしてこう返事したでしょう。
「え?私、別に心理学をやりたいとか思ってないよ?」
…はい?
あれだけ時間を費やして情報を集め、自分なりに考察してきたにもかかわらず?
実際、学生時代の紡綺は進路を決める際に「心理学」や「哲学」を候補からバッサリ外していました。
おかしいことだと思ってた
……。
どうして自覚がなかったのか。
理由を突き詰めたら、大きく分けて二つ見つかりました。
一つ目の思いはこうです。
「まだ若いのに心のことを調べるのはおかしい。私がこういうことに興味を持つのは、心が病んでるからだ」
と、自分の興味のあることを否定していたんです。
調べまくりの日々を送っていたのは自身の心の変化がきっかけでしたが、もともと自分や他人の気持ちについてじっくり深く考えるのは好きなタイプの人間でした。
好きというか、自然にやっていることかもしれません。そして空想癖をこじらせてゆく
それなのに、私は自分が熱心にやっていることを自覚できなかったのです。
不思議に思うでしょうか?
「自分の熱中していることが分からないなんて、そんなことある?」と思うでしょうか?
いや…私も何でそうなるんだって思いました。
今だから分かるんですが、小さい頃の私は、本当はワクワクしたり感情が動いたりしているのにそれを基準に物事を選択してはならないと思ってたんです。
正しいほうを選ぶのが一番!と信じ切ってました。
だって、私の周りの大人たちはみんなそう言ってた。
少しずつ年齢を重ねていろんな考え方に触れるようになって初めて、自分の気持ちに素直に生きるという概念を知ったという感じなんです。
(さすがに幼児期は素直だったと思うので、思い出したというのがより正確かもしれませんね)
ここでようやく「私が本当に好きなことってなんだ?」って考えるようになりました。
この時点で、既に年齢だけは大人になっていました。
そんな感じで今更、心について向き合う覚悟を決めていった…というのが今の私です。
役に立たなきゃ意味がないと思ってた
理由二つ目は「悩んでばかりの自分が、心理的なサポートをできる立場になるのは難しい。一緒に病んでしまいそうだ」と思っていたことです。
私は自分をそこまで強い人間だと思ったことはありません。
ちょっとしたことを気にしてしまうし、周りで辛い人を助けられないと自己嫌悪に陥るし…。
でも学ぶだけなら、例え誰かの役に立たなくても続けてれば良かったのにって今は思います。
続けている過程で私だからこそできることが見つかるかもしれなかったのに、と。
最初から「人の役に立ちそうもないことをやる意味なんてない」と思って諦めていたんですね…。
おわりに
さて、今回のお話は、過去の自分を振り返って私が気付いたことをつらつらと述べる形となりましたが、いかがだったでしょうか…?
少しだけ大人になった今の紡綺は、そんな過去に気付いて自分なりに心の探求をしつつ、書いたり描いたりいろんなことを試しています。
今日のお話もその一環です。
どちらかというと、本当にやりたいことを「おかしい人だと思われたくない」と閉じ込めてきた昔の私に対して
「心に興味があっていいよ。周りに似たような人がいなくても、自分が心から楽しめているならそれでいい。安心してやりたいことやりな」
って言ってあげたいがための内容かもしれません。
誰かのためになるかどうかは、その人自身にしか分からない。
それでもあなたにとって何か良きものを提供できていればと願って。
それでは、また。