こんにちは、紡綺ひろかです。
今日のお話は、いろんなことが気になって「書くこと」が辛くなっちゃった時の私の経験談です。
と言いますのも、実は私、数年間
「自分は上手く書くことができない。下手くそだ」
と思って書くことが嫌いになっていた時期があったのです。
「感想文を書いてください」と言われると「OK!簡単!」と思っていた私からするとそれはもう衝撃でした。
ひとつのアイデンティティ「私は作文が好きで得意」というのが崩れ去り、無力感を強める結果にもなってしまいました。
ですが今、どういうわけか私はこんなところでブログを書くようになっています。
下手くそだ。もう書きたくない。書けない。
そう思っていた私がなぜ、辛さから解放されていったのか。
今日はそんなお話をしたいと思います。
「書くのつらい…」と思っていらっしゃる方のなんらかの癒しになれば幸いです。
(書くテクニックというより気持ち的な問題に焦点を当てていきますので、ご了承くださいませ)
自信がもてなくなった出来事
さて、もともとの紡綺は作文と聞くとワクワクするタイプの人間でした。
それなりの賞を貰ったこともあります(子供の頃ですが)。
しかし、ある頃から突然、良い評価を貰いにくくなってしまいました。
周りの人達のほうが上手だと褒められているのを見て、だんだん自信もなくなりました。
しかも何故急にそうなったのか分からない。
それだけでなく、自分で読んでても何となく違和感を覚えるようになりました。
なんか陳腐な表現ばっかりだな〜とか、ここ文字数稼ぐために書いてるなぁとか。
自分の言葉じゃないな…と思っていました。
加えて、いつも人より遅く書き終わることに対しての劣等感も抱いていました。
もともと得意だと思っていたことを「できない」と感じるのは、思った以上に堪えます。
人の能力は、下がったり超えられたりすることがあるもの。
…とはいえ、自分でも全然納得のできない文章ばかり量産してしまうことに、当時は人知れずかなり落ち込んでおりました。
どうして書けなくなったのか
結局何が原因だったのでしょうか。
そのヒントは私自身の感想にありました。
「自分の言葉じゃないな」
そう、自分の本心を文字にしていなかったのです。
- こう書いたら変な奴だと思われる。
- これを書くと相手の地雷かもしれないからやめておく。
- つまんないこと書いたら評価下がるかも。
とにかく他者の評価一本で考えていました。
この「一本」がみそです(良くないほうの)。
読む人のことを思って書くこと自体は大切だと思います。
この表現は相手にどんな印象を与えるか?傷付けないだろうか?と考えるのは、伝える側として大事な配慮のひとつと言えます。
問題は、やりすぎていたことです。
もう、とにかく、絶対に嫌われたくなかったので、誰も傷付かない文章を書かねば!と肩肘張りまくっていました。
そうしていくうちに、本心ではそこまで興味がないのに「興味を持ちました」とか楽しくなかったのに「楽しかったです」と書くようになり…
「分からない」「私は同じ考えではない」というような言葉を書くことができなくなり、文章で嘘ばっかりつく人間になってゆきました。
嘘自体が悪いとは限りませんが、やりすぎると空虚な気持ちになってしまうことがあります。
何かの感想文を書く時に「自分はどう思ったかな?」と考えるのではなく、
「どう書いたら正解なのかな?」
と、まるで国語のテストのように考えていました。
自分の思いを振り返らずに感想文を書くという矛盾。
しかし、嫌われたくなさすぎた当時の私は、その矛盾にまったく気付いていませんでした。
どうやって脱したか
ノートにこっそり本音を書いてみた
ここからは、どうやって私が書く楽しさを思い出したのかについてお話しします。
それは「悩んだ時には今の思いを紙に書くといいよ!」というアドバイスを耳にしたことがきっかけです。
なるほど、と思って誰にも見せないノートなどに自分の素直な思いを書き記してみるようになりました。
誰の評価も受けないで済むし、誰かに見られない限り何を書いても嫌われません。
そのためか、もう一生書いていられるんじゃないかなと思うほど、筆が進みに進みました。
最初は見返すのもアレなくらい暗い言葉が並んでいました。
書くのが嫌だ〜とか、楽しくないな…など。
でも、だんだんと自分の本心が見えるようになりました。
「こんなこと考えてるなんてばれたら、変に思われるよね」
「おかしな日本語で書くのは未熟者」
「私は、自分の思いで書いてなかった」
ノートに書いた言葉を見て初めて、自分がいかに他者の評価に依存して文章を書いていたかに気付いたのです。
正しく書くことに囚われすぎて、上手く書けなくなってしまっていたのでした。
小説に投影してみた
また、この頃は誰にも見せないつもりで小説を書き始めていました。
一見ハードルの高いことのように感じられるかもしれませんが、私にとっては好きなことだったのと、都合の良いことがあったのですんなりできました。
(出来が悪くても自分しか読まないので関係ない!)
小説って、自分の思いをストーリーの裏に隠せるんですよね。
まずは遠回しに、登場人物に自分の思いを投影させてみる。
自分の本心と向き合う準備ができていなかった頃は、このやり方が一番都合が良かったのです。
これもまた驚くほど軽やかに書けました。
「書きたいものならこんなに筆が進む」というのは、自信喪失の私にとって大きな成功体験となりました。
私の場合は小説が合ってましたが、人によっては自分の好きなもの(推し)について語る文章とか、日記にしてみる、という方法もありそうですね。
書き方も人それぞれで良かった
ついでに、遅筆なのも仕方のないことだと気付きました。
私は昔から、文章構成やプロットをしっかり作ってから書いていたのです。
※プロット=物語などの展開をまとめたもの
いきなり書き出して上手くいけばいいのですが、言いたいことを詰め込みすぎて雑談のようなものが出来上がったり、行き詰まったりすることもあります。
そのため、一度頭の中を整理する時間を取っていました。
また、ただの感想文だったとしても、推敲にめっちゃくちゃ時間を掛けたい人でした。笑
世の中には自分の倍以上のスピードで書き、しかも傑作を生む天才がいます。
天才と比べてしまうと「遅くてしかも天才的な文章など思いつかない私の方法は良くないのだろうか」という考えが頭をよぎります。
いやでも、構成とかに時間を掛けたほうが私は楽しいし、納得できるものが書けるんだもん。
そう思うようになってから、遅筆に対する劣等感は薄まりました。
しかも、自分に合ったやり方を追求して実践してからのほうが、以前よりも書くスピードが上がりました。
書き方も人それぞれ、その人にとって合ったやり方であればいいんだ、とやっと気付いたのです。
自分の思いを言葉にできるのって、うれしい。
そして今は、思ったことを自分なりの方法で言葉にできるスッキリ感を楽しめるようになりました。
未だに背伸びして「どう書けば正解なのか」を考えてしまうこともありますが、少しずつ自分にとって違和感のないものを作れるようになってきました。
「私の言葉じゃない」と思うことも少なくなりました。
できなくなる経験はしんどいものでしたが、苦手な人にとって書くというのがどれほどエネルギーを要するのか知る良い機会にもなりました。
そして「しっくりくるやり方で書く」というのは私にとって一つの目標になりました。
書くことが好きなうちはこの楽しさを多くの方にお伝えできたらなぁ、なんてぼんやり思っております。
正しい言葉で書くことも大事だけど、書くプロセスを楽しもうとしたってよいのでは?と思うのです。
というところで、今回のお話は終わりにしたいと思います。
何かが上手くできなくなって辛くなってしまった方へのヒントになっていたら嬉しく思います。
ここまで読んでくれてありがとうございました。
それでは、また。